マレー半島、スマトラ島(インドネシア)は、14世紀以降同一国家の支配下にあった。
植民地化されるまでのマレー半島とインドネシアの歴史
7世紀から14世紀にかけマレー半島、インドネシア地域一帯を最初に勢力を拡大したのは、仏教を国教としたシュリウィジャヤ王国だった。
シュリウィジャヤ王国は、14世紀後半にヒンズー教を国教としたマジャパヒト王国に征服されその支配下に入った。15世紀に入るとマジャパヒト王国は内戦で衰退したため、スマトラ島のパレンバンからシュリウィジャヤ王国末裔の王子がマレー半島に勢力を広げマラッカにマラッカ王国を成立させた。
マラッカ王国の繁栄とイスラム教の拡大
15世紀初頭、この地域に明国(中国)皇帝の命を受けた鄭和の大遠征が行われ、マレー半島からインドネシアのかけた地域を明国の勢力下においた。これに対しマラッカ王国は明国に対し朝貢外交を開始、明国の支援のもと中継貿易拠点として栄える礎えを作った。また、マラッカ王国はインド商人によってもたされたイスラム教を取り入れ強大なシャム王国(仏教)に対抗した。
一方、マジャパヒト王国のあとスマトラ南部からジャワ島にかけては勢力を伸ばしたマタラム王国、および同時期にスマトラ島の北部に栄えたアチェ王国もイスラム教を取り入れこの地域全体にイスラム教が浸透していった。
ジャワ島のジョクジャカルタにあるボロブドゥール寺院はマジャパヒト王国時代の仏教、ヒンズー寺院であるが、マタラム王国の勢力の増大によりイスラム教が浸透し、その過程で衰退していった。現在ヒンズー教徒は東ジャワのブロモ山とバリ島に残るのみとなっている。
西欧列強による植民地化のはじまり
マラッカ王国は1600年ポルトガルが来航するまで中継貿易により繁栄し、現在のスマトラ島中部、マレー半島を勢力圏としていた。1600年以降ポルトガルによる征服によりマラッカ王国が滅亡した後も一部はジョホール・リアウ王国に引き継がれ、その後オランダ、イギリスの植民地化によりマレー半島とインドネシアが分断されるまでマレー半島、スマトラ島中部は、同一国家、同一文化圏であった。
マレー語の流布
マラッカ王国の成立により、スマトラのパレンバン周辺で使用されていたと考えられるマレー語がマラッカ王国の繁栄にともない、マレー半島、スマトラでい広く使用されるようになったと思われる。