ふーやんのマレー語、インドネシア語言語考察

インドネシア語学習者からみたマレー語との違いについてコメントしていきます。。

マレーシア保健省の広報についてマレーシア語とインドネシア語の相違について考察してみた。

マレーシア保健省の3月30日付広報

”コロナウィルス感染者の内、快復,退院者数は順調に増加し479名になった。”

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マレーシア保健省の広報(3月30日付)

感染者数の増加だけでなく、順調に回復、退院者も増えていることをアピール。
耐久生活を続けている国民のモチベーションの維持にはよい広報だ。

これを言語的にインドネシア語と比較してみた。

1.マレーシア保健省

<マレーシア語> "Kementerian Kesihatan Malaysia"  マレーシア保健省
インドネシア語"Kementerian Kesehatan Malaysia "    マレーシア保健省

Kesihatanについて語幹はマレーシア語がSihat、インドネシア語がSehat ともに健康、健全等と同じ意味で発音が少し違う程度でインドネシアからみても違和感なし。

 

2.快復した患者数、退院者数の増加

<マレーシア語>     "Bilangan pesakit yang telah sembuh dan discaj hospital terus     meningkat..."
インドネシア語"Jumlah pasien yang telah sembuh dan dipulangkan dari rumah sakit  terus meningkat"

Biangan(数)について 、インドネシア語でも数という意味はあるが、総数、を意味する場合Jumlahを使用する。Pesakit(患者) はマレーシア語は病気の人という意味であるが、インドネシア語では、この表現はなく、インドネシアでは何となく理解されるかなというレベル。インドネシア語ではオランダ語を語源とすると考えられるPasienが使われる。
Discaj hospitalはマレーシア語では、英語がそのままマレーシア語化されているが、インドネシア語では、pulang/keluar dari rumah sakit(病院)とひとつの単語はなく、一般的に、文章で病院から帰る/出ると説明する。

 

3.保健省のスタッフの皆様ありがとう、そしておめでとうございます。

<マレーシア語> "Terima kasih dan Tahniah kepada semua kakitangan kesihatan KKM'
インドネシア語"Terima kasih dan Selamat kepada semua pegawai kesehatan KKM"

Tahniah(おめでとう)は、アラビア語を語源とするマレーシア語であり、一般的に祝意を表すことばである。一方、インドネシア語では同義語でSelamatを使用する。同じくアラビア語を語源とすることばであり、マレーシアでも意味は理解されるが、ちょっと古いことばという印象がある。
Kakitanganについて、マレーシア語では一般的に会社のスタッフの意味で使われるが、インドネシア語では、子分、手下というような意味になる。一般の会社の従業員、公務員については、pegawaiが使われている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マレー半島、スマトラ島(インドネシア)は、14世紀以降同一国家の支配下にあった。

植民地化されるまでのマレー半島インドネシアの歴史

7世紀から14世紀にかけマレー半島インドネシア地域一帯を最初に勢力を拡大したのは、仏教を国教としたシュリウィジャヤ王国だった。

シュリウィジャヤ王国は、14世紀後半にヒンズー教を国教としたマジャパヒト王国に征服されその支配下に入った。15世紀に入るとマジャパヒト王国は内戦で衰退したため、スマトラ島パレンバンからシュリウィジャヤ王国末裔の王子がマレー半島に勢力を広げマラッカにマラッカ王国を成立せた

マラッカ王国の繁栄とイスラム教の拡大

 15世紀初頭、この地域に明国(中国)皇帝の命を受けた鄭和の大遠征が行われ、マレー半島からインドネシアのかけた地域を明国の勢力下においた。これに対しマラッカ王国は明国に対し朝貢外交を開始、明国の支援のもと中継貿易拠点として栄える礎えを作った。また、マラッカ王国はインド商人によってもたされたイスラム教を取り入れ強大なシャム王国(仏教)に対抗した。

一方、マジャパヒト王国のあとスマトラ南部からジャワ島にかけては勢力を伸ばしたマタラム王国、および同時期にスマトラ島の北部に栄えたアチェ王国もイスラム教を取り入れこの地域全体にイスラム教が浸透していった。

ジャワ島のジョクジャカルタにあるボロブドゥール寺院はマジャパヒト王国時代の仏教、ヒンズー寺院であるが、マタラム王国の勢力の増大によりイスラム教が浸透し、その過程で衰退していった。現在ヒンズー教徒は東ジャワのブロモ山とバリ島に残るのみとなっている。

西欧列強による植民地化のはじまり

マラッカ王国は1600年ポルトガルが来航するまで中継貿易により繁栄し、現在のスマトラ島中部、マレー半島を勢力圏としていた。1600年以降ポルトガルによる征服によりマラッカ王国が滅亡した後も一部はジョホール・リアウ王国に引き継がれ、その後オランダ、イギリスの植民地化によりマレー半島インドネシアが分断されるまでマレー半島スマトラ島中部は、同一国家、同一文化圏であった。

マレー語の流布

マラッカ王国の成立により、スマトラパレンバン周辺で使用されていたと考えられるマレー語がマラッカ王国の繁栄にともない、マレー半島スマトラでい広く使用されるようになったと思われる。

 

 

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マラッカ王国の勢力図 (Wikipedia引用)